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「・・・俺、場違いじゃないですか?」
アリス・キニアンは、きつく見える目許をへにょりと下げて周りをチラチラと見遣り、隣にいる男に小声で話しかけた。
2千人を収容可能なホールで、客席は6割ほどが埋まっている。
3階席まであり、1階のステージに近い席に応札者、中央あたりに特別席があって主催者やゲストなどがおり、それ以外の席は一般の観覧者という区分になっている。
煩くはない程度にざわめきがあり、このあとの時間に期待を抱いているのだろうことが伺える。
格調高い紳士淑女の集まりとまでは行かないが、一応のドレスコードが設けられている程度には人を選ぶ催しである。
「よく似合っている」
ゆったりと余裕のある笑みを浮かべた美貌の男は、実の子と変わらないほどに可愛がっている青年の挙動不審な様子を、内心で面白がっていた。
決して馬鹿にしているわけではない。
賢い大型犬のように穏やかな気性であるにも関わらず、驚くほど自分に自信のない様子がいじらしくて庇護欲を誘うのだ。
「俺、ヴァンツァーの専属チェリストになっても返しきれない気がします・・・ピアスもいただいたばかりなのに」
少し意匠は異なるが、カノンとお揃いで作ってもらったピアスは目が飛び出るほど高額であることを、キニアンは知っている。
今着ているスーツも、既製品ではなく目の前の男のデザインだ。
ネイビーのジャケットに、光沢のある黒いシャツで、落ち着いた色合いなのとノーネクタイなのがありがたい。
「ヴァンツァーはよく参加するんですか、オークション?」
「応札者として申請はするが、実際に競りに参加することはそう多くない」
「──いがーい」
ヴァンツァーの右手にはキニアンが、左手には娘婿のライアンが座っている。
濃淡のあるピンクと茶色のツイードジャケットが、女性的な容姿の彼によく似合っている。
「金に糸目をつけずに買うイメージあるのに」
面白がる様子のその言葉に、ヴァンツァーは肩をすくめた。
「あまり物欲がない」
「あぁ、パパさんって、自分のものを買うよりもひたすら貢ぐ方が好きですよね」
「何を渡すか、選んでいる時間が好きかな」
「渡すときよりも?」
「結果は正直どうでもいい」
このあたりが、シェラにこっぴどく怒られる原因である。
「だいぶ相手の意見も聞くようになったが」
どんな反応を見せてくれるのか、想像しながら贈り物を選ぶ時間が好きなのだ。
喜んでくれたら勝ち、あまり反応が芳しくなかったら次回にチャレンジだ。
「欲しいものがあったら言うといい」
その言葉にライアンは「は~い」と返事をして、キニアンは苦笑していたのだが──。
「え・・・」
この日は特に戦果もなく、オークションも終盤に差し掛かったころ。
「──さぁ、本日の目玉はこちら! 音楽家であれば誰もが憧れる名器です!」
舞台の上手袖から、真っ赤な生地にクリスタルとスパンコールがあしらわれた豪奢なドレスを着た女性が登場した。
その左手には、1丁のヴァイオリン。
「著名な音楽家のもとにあったものではなく、新しく見つかった楽器です。ですが、鑑定の結果本物であるとされています」
会場がざわめきに支配された。
著名な音楽家が演奏していたものでないのならば、相応の鑑定結果があったとしても偽物である可能性も低くはない。
「まずはその音色をお聴きください」
思わず身を乗り出したキニアンは、食い入るようにその楽器を見つめた。
演奏されているのはバッハの「シャコンヌ」。
短調で始まるその曲は、「人生とは?」と問いかけてくるような重厚さと哀切がある。
演奏が終わったあと、会場は盛大な拍手に包まれ、ヴァイオリニストも満足そうに礼を取っている。
「アー君、すごい顔してる」
くすくすっと笑われて、キニアンははっとして身を起こした。
「え・・・え、なに?」
「いい音だった?」
「いや、ちょっと窮屈そうだった」
「──へ?」
碧眼を丸くしているライアンから舞台上に視線を戻し、キニアンは彼にしては珍しく不満そうな表情を浮かべた。
「やっと歌えるようになったのに、声が出ないんだな・・・」
可哀想に、と呟く様子は、その楽器が本物かどうかなど気にしてもいないのだろう。
──だが。
ヴァンツァーは、ふっと口許に笑みを浮かべた。
この青年が気に掛けるというその1点だけで、間違いなくその楽器は「本物」なのだ。
制作者や歴史的な価値は分からないが、その「音」は間違いなく彼の心を動かした。
「さぁ、それでは始めていきましょう。大変価値のあるヴァイオリンです。──まずは3億から!」
この楽器が本物だった場合、その値段でも安いくらいだ。
7億まではあっという間に上がった。
「こんな大金なのに、応札者が何人もいるのか」
ふへー、と背もたれに寄りかかり、ライアンは札を上げて応札していく参加者を見遣った。
7億を超えてからは、数百万、1千万くらいの間隔で金額が上がっていく。
その高額さに、参加者だけでなく観覧者の側も熱気が上がっていっているようだ。
キニアンに、幻の名器と呼ばれる楽器が概ねどれくらいの金額で取引されるのか訊こうと、ライアンが右側に目を向けると──。
「──10億」
落ち着いた、けれどよく通る低い声がすぐ横で聴こえて、ライアンはぽかん、と口を半開きにした。
「じ・・・10億! 10億の声がありました。さぁ、他にはいらっしゃいませんか?」
「11億!」
「15億」
オークションの司会者の呼びかけに応える声が上がったが、ヴァンツァーはすぐさま一気に金額を釣り上げた。
「ヴァンツァー・・・? なにして・・・」
瞬きもせずに見てくる緑色の瞳に、ヴァンツァーはにっこりと笑みを浮かべた。
「あれ。買ったら演奏してくれるか?」
「──は?!」
応札してから言うの?! と飛び上がらんばかりになったキニアンと、やけくそ気味に上がった「17億!」の声に「30億」と冷静に続くのがおかしくて、ライアンは腹を抱えて笑った。
「なんでそんな一気に!」
「早くアルが弾くのを聴きたい」
いくらでもいいんだ、とちょっと拗ねたような、面倒くさそうな表情で言われて、キニアンは真っ青になった。
「俺はチェリストです!」
「アルのヴァイオリンも好きだ」
打って変わって子どものように嬉しそうな顔になるものだから、キニアンはグッと言葉に詰まった。
「30億! 30億の声が上がりました。他にいらっしゃいませんか? いらっしゃらないようですので、そちらの紳士の方に落札されました!」
会場からは盛大な拍手が沸き起こった。
「ヴァイオリンとしては史上最高額での落札となります! さぁ、落札された方はどうぞ壇上へ!」
司会者に呼ばれて立ち上がったヴァンツァーは、呆然としている青年に手を差し出した。
「おいで」
「・・・え?」
「言ったろう? アルの演奏が聴きたい」
「・・・」
ヴァイオリニストではないと言ったところで、無駄だろう。
ため息を零したキニアンは、ヴァンツァーの手に自分のそれを重ねた。
「冷たいな。大丈夫か?」
「・・・あなたがそれを訊きますか?」
舞台上で演奏することよりも、今目の前で起こった出来事への緊張が酷い。
呑気に心配してくる男の様子に、「たまにぶん殴りたくなる」と言っていたシェラの気持ちが少し分かる気がしたキニアンだ。
「──おや、そちらの青年は?」
「弾かせてもらっても?」
「あなたが支援をしていらっしゃる音大生でしょうか? もちろんですとも!」
壇上に、冒頭ヴァイオリンを弾いた演奏者はすでにおらず、件のヴァイオリンは赤いサテンの布が敷かれたケースに収められている。
ヴァイオリンと弓を手に取ったキニアンは、指先で軽く4つの弦を弾く。
「さぁ、皆様。エキシビションといきましょう。こちらの青年が演奏するのは、バッハかパガニーニか!」
先ほど演奏された「シャコンヌ」は、技術的、表現的に最高難度のヴァイオリン独奏曲の1つだ。
ヴァイオリニストの腕も悪くなく、会場はどのように技巧的な曲を聴かせてもらえるのかと期待しているようだった。
調弦をするように軽く鳴らしたキニアンは、ヴァンツァーにちらりと視線を移した。
「何でも?」
「あぁ。アルのいいように」
言われて、キニアンは軽く頷いた。
そうして始まった演奏に、会場はシン、と静まり返った。
編曲されたものではあるが、もとは同じ作曲家の作品ではあるものの、「シャコンヌ」のような重厚さはなく、技巧の粋を凝らしたものでもない。
その曲名の通り弦1本での演奏も可能ではあるが、難易度が上がるため他の弦を使うことも多い。
さらにキニアンは、本来の曲とは異なる弦1本で演奏をした。
少女がそよ風の吹く野原に座り、細い声で、けれどどこまでも伸びやかに歌う様子が脳裏に浮かんで来る。
──大丈夫、また歌えるよ。
ゆっくり、少しずつ、俺とおしゃべりしよう。
超絶技巧の曲だと俺にはちょっと荷が重いけど、ヴァイオリンが得意な人が身近にいるからその人に──あぁ、分かった分かった、しばらくは、俺と一緒に歌おうか。
くすっと笑って最後の一音まで丁寧に弾ききり、やがて余韻まで消えると、キニアンは目を開けた。
そうしたら、目の前に滂沱と涙を流すオークションの司会者がいて、思わず身を引いた。
「え・・・あの、どうかされたんですか?」
「わた・・・わた」
何か喋ろうとしているようだが、嗚咽が酷すぎて言葉にならないらしい。
正直ドン引きしたキニアンだったが、直後に割れるような拍手と歓声が起こって客席を振り返った。
「・・・なにこれ」
「まぁ、お前が弾いたらこうなるだろうな」
客席を見て、なぜか自分が得意げな顔をするヴァンツァー。
それからふたりは客席に戻り、その後も最後までオークションの雰囲気を楽しむと、落札した品物の決済のために用意された応接スペースへと向かった。
非常に高額であるにも関わらず限度額不明のカードの存在によってあっさりと決済を終え、三人は帰路に着いた。
「ところで、なぜA線で?」
ヴァンツァーからの問いかけで、キニアンは手元のケースに目を落とした。
「今、唯一綺麗に歌えるので」
「窮屈そうって言ってたけど、他の弦は音が良くないってこと?」
「あぁ」
「いい演奏だったと思うけどなぁ」
「弾き手が上手かったんだ」
決して悪い演奏ではなかった。
キニアンの耳には、子どもがグズって泣いているように聴こえたというだけ。
変声期で声が出ない男の子に似ているかも知れない。
「あまり演奏される機会がなかったようだな」
「えぇ。歌うことは好きみたいなので、何度か弾かせてもらえれば機嫌よく歌うようになると思います」
「あげる」
「──は?」
「とはいえ、固定資産税がかかるようであれば貸与の形にするが」
「いやいやいや」
「チェロはどうしている?」
「かかってないと思いますけど・・・」
「そうか。まぁ、今度税理士にでも相談してみよう」
車の中では呆然としてしまってそれ以上何も訊けなかったキニアンであったが、帰宅して一番にシェラに泣きついたことは言うまでもない。
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「あいつにしてはいい使い方をしたな」と頼みの綱のシェラに言われてorzになってしまうキニアンなのでした。