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「おかえり」
幼稚園バスを降りると笑顔の父に出迎えられ、フーガは思い切り顔を強張らせた。
そうして、菫色の瞳にじわりと涙を浮かべると、ヴァンツァーの横をすり抜けるように脱兎のごとく駆け出したのだった。
「──え・・・?」
「フーちゃん!」
ロンドもバスを駆け下り、フーガのあとを追う。
「・・・え?」
目の前で起きたことが信じられず、ヴァンツァーはしばし固まった。
仕事があるため迎えに出られることはほとんどないが、代わりに家の前でバスを待っているときには毎度大感激されるヴァンツァーだ。
特にフーガは、何ならシェラよりもヴァンツァーの方が好きかも知れないというくらいのパパっ子なので、愛らしい顔の周りに花を飛ばす勢いで喜んでくれる。
それが、今日は怯えられた上に、逃げられた。
「あの・・・」
控えめに声が掛けられ、目を向ける。
「すみません、フーガ君、お絵描きが嫌だったみたいで・・・」
困ったような顔をしている女性教員に、ヴァンツァーは軽く首を傾げた。
そんな話は聞いたことがない。
妹たちとお絵描きするのも好きで、誕生日などのプレゼントに何が良いかを聞くと、本の次に色鉛筆が出てくるような子だ。
「今日のお絵描きの時間に、突然泣き出してしまって」
物静かなフーガなので、大泣きしたりはしない。
ただ、はらはらと涙を零す様が余計に可愛そうで、と告げ、フーガの走っていった方を心配そうに見る教員に「そうですか」とヴァンツァーは返した。
銀幕スターが裸足で逃げ出す美貌の男よりも子どもの心配をするあたり、いい先生なのだろう。
「話を聞いてみます」
「よろしくお願いします」
頭を下げた教員はバスに乗り込み、広大なファロット邸の前から去っていった。
ため息を零しながら家に入ったヴァンツァーは、キッチンで鍋を火にかけているシェラに、「フーガとロンドは?」と訊ねた。
「子ども部屋」
簡潔な言葉に、少し眉をひそめる。
「フーガは泣いていなかったか?」
「泣いてたな」
更に眉間に皺が寄るのを自覚したヴァンツァーだ。
「行ってくる」
「やめとけ。余計泣く」
「・・・」
素っ気ない言葉に、ズキリ、と胸が痛んだ。
死にそうな顔をしている男に、シェラはニヤリ、とちょっと人の悪い笑みを向けた。
「任せておけ」
「シェラ?」
「子どもを懐柔するのは得意中の得意だ」
どうやら作っているのはホットチョコレートのようだ。
ラズベリーのマフィンもある。
今日のおやつを持って子ども部屋へ向かうシェラを、ヴァンツァーは不安そうな顔で見送ったのだった。
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それから一時間ほどして、リビングのドアが開く気配に、ヴァンツァーは振り返った。
シェラを待つ間中、ソファに腰掛けながら床を睨みつけていた男は、「顔を戻せ」とシェラに言われてはっとした。
一度瞬きをすると、穏やかな表情でシェラの背後に隠れるようにしているフーガを見遣る。
「フーガ」
呼べばビクリとちいさな肩が震えて、そんな様子を見ればまた胸が痛くなった。
目に入れても痛くないほど子どもたちを可愛がっており、また好かれている自信もあったヴァンツァーだから、今の状態には絶望しかない。
「行っておいで、フーちゃん」
「でも・・・」
やさしくシェラに促され、それでも躊躇っていたフーガではあったのだが。
「・・・フーガ」
弱々しい声と、どこか泣きそうな表情をしている父の姿に、腕の中のものをぎゅっと抱え直して一歩踏み出した。
ゆっくり近づいていくと、床に膝をつき、軽く腕を広げて待つ父に迎え入れられた。
そっと抱きしめられて、フーガは「ごめんなさい」と呟いた。
「どうして?」
「・・・ただいま、しなかった」
その言葉に、ヴァンツァーはくすっと笑った。
「じゃあ、今してくれ」
こくんと頷いたフーガは、まだほんのちょっと哀しそうな顔ではあるけれど、「ただいま」と言って広い肩におでこを擦り寄せた。
「何かあったのか?」
「・・・」
「嫌だったら、無理には聞かない」
フーガを抱き上げたヴァンツァーは、そのままソファに腰をおろした。
「・・・あのね」
「うん」
「あの・・・今日、幼稚園でお絵描きしたの」
「うん」
「それでね・・・」
フーガの目に、じわりと涙が浮かぶ。
無理をしなくていいよ、と言うつもりで、黒髪をそっと撫でる。
ぎゅっと唇を引き結んだフーガは、やがて顔を上げてヴァンツァーに腕の中のものを渡した。
「──スケッチブック?」
こくん、と頷いたフーガは、パラパラと紙をめくって、とあるページをヴァンツァーに見せた。
「──うま・・・」
思わず「上手い」と漏れた言葉。
「俺を、描いてくれたのか」
青い瞳は、真っ白い紙に描かれた人物を凝視している。
緩やかな癖のある黒い髪、キリリとした眉、切れ長ではあるものの穏やかさも見える藍色の瞳。
通った鼻梁に、形のよい唇。
誰に見せてもヴァンツァーだと分かる、およそ五歳の子どもが描いたとは思えない絵だった。
「すごいな」
絵を描くのが好きなのは知っていたが、いつもは図鑑を見ながら花や鳥を描いていた。
初めて見せてもらった自分の絵に、ヴァンツァーは驚きとともに感動を覚えた。
「・・・ごめんなさい」
また謝ってくる息子に、ヴァンツァーは首を傾げた。
「上手に、描けなかったの・・・」
ぷっくりと涙が浮かび、ヴァンツァーは慌ててその涙を拭ってやった。
「とても上手だ」
褒めても、ふるふるを首が振られるばかり。
「本当だ」
重ねて言っても、フーガの態度は変わらない。
どうしたものか、と困っていると、「つまりな」というシェラの声が耳に入った。
「お前が美形過ぎて、自分の画力が追いつかないそうだ」
「──え?」
「顔が良すぎるんだよ、お前は」
「・・・」
言っていることがよく分からない。
きょとん、としている男に、シェラは呆れたようにため息を零した。
「パパはもっともっとかっこいいのに、一生懸命描いても全然本物みたいにならなくて哀しくて泣いてるんだ」
「・・・」
──何それ可愛い。
思ったけれど、からかっていると思われたくなくて黙り込んだヴァンツァーだった。
代わりに、フーガを抱え直すと泣いて紅くなった頬を撫でながら訊ねた。
「また描いてくれるか?」
「──え?」
「俺のこと」
「でも」
「すごく嬉しかった」
「──嬉しい?」
「あぁ。とても」
「・・・ほんと?」
もちろん、と笑みを向ければ、ようやくフーガはほっとしたように、ほんの少し頬を緩めた。
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ロンちゃんが描いたのはフーちゃん。
顔の周りにお花とキラキラエフェクトいっぱいのや~つ~。