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──その日、大国タンガの王太子は『宝物』を手に入れた。
ザワザワというよりは、ガヤガヤ。
あまりにも執務室の外が騒がしくて、この国の第一王子──王太子は、山のように積まれた決裁書を捌いていた手を止めた。
「・・・何だ?」
賊にしては、人の声が煩いだけで剣戟の音や魔法を使う気配はない。
ただ、ドスドスと人の足音がする。
──お待ち下さい!
──ここから先は!
口々に制止の声をかけるのは衛兵だろう。
王太子の執務室まで乗り込んでくる骨のある大臣の顔も、いくらか思い浮かぶ。
さて、財務か軍部か。
宰相は有能極まりないが、害になりそうな人間はあえて排除しない。
そんな輩は、わざわざ手を下さなくても勝手に自滅する。
本人の言だが、己の手を下しはしなくとも巧妙に誘導はしているだろう、と王太子は見ていた。
「──で、殿下?!」
悲鳴のような声が部屋の外から届く。
呼ばれたら、出向かないわけにはいかないだろう。
王太子は若干面倒くさそうにしながらも、内から扉を開けさせた。
「どうした、随分騒がし──」
執務室から一歩出た王太子は、まず思ったよりも扉の前に人がいなかったことに眉を寄せた。
ではなぜあんな騒ぎに、と思い、ざわめきの中に荒い呼吸音を聞き取って視線を下げた。
「──お前」
太陽の下では金にも見える琥珀色の瞳が瞠られる。
王太子は、濃い色の髪と浅く日に焼けた肌、よく鍛えられた長身の美丈夫だ。
女が10人いたら確実に10人が振り返り、ほぼすべてが恋をするだろうほどの美形だった。
「護衛必要ですか?」と近衛に言われるほど武芸に秀で、王立学院の教授たちが諸手を上げるほどの秀才。
性格は鷹揚だが決断は早く、よく笑うが沈着冷静。
『完全無欠』と評される男は、足元の大きな塊に目を瞬かせた。
「あ、あに・・・あに、うえ・・・」
ぜぇはぁ、などという可愛らしいものでは済まない大袈裟なほどの過呼吸を繰り返すのは、お菓子が大好きな彼の弟。
では先程の『殿下』は彼のことか。
「あに・・・うえ」
一国の王子が、床に這いつくばり、助けを求めるように手を伸ばす。
どう見ても行き倒れだ。
しかし、周囲の兵士の誰一人として、第二王子に手を貸そうとはしなかった。
「よお、どうした?」
よいしょ、とぐったりしている弟を、うつ伏せの状態から仰向けにする。
白い額には汗がびっしりで、王太子は眉を寄せた。
何かに追われてきたのだろうか、だがそれにしては周囲の兵士が戸惑ったような顔しか見せないのが気にかかる。
「あに・・・あに、うえに・・・お、お願い、が・・・」
「──お願い?」
弟の持つ魔力が、人の身には大き過ぎるものであることを、王太子はよく理解していた。
意図的に使えば、それは万の軍にも匹敵するだろう。
その力から『化け物』と、その見た目から『白豚』と呼ばれることも、知っている。
「珍しいな。で? 何だってそんなに息切れしている?」
「は、はし・・・走って」
「走って?」
王族としては、たとえ王城内であろうと褒められた行為ではない。
けれど、王太子はまた「珍しいな」と呟いた。
「飛んで来なかったのか」
第二王子が、水差しやお菓子の籠ですら宙に浮かせて動かすことはよく知られている。
彼自身も、移動の際に歩かないことも。
それがなぜ、と思った王太子の眼下で、藍色の瞳が瞬く。
「飛んで・・・とん・・・──飛んでぇぇぇぇぇ!」
──ビシャーーーーーンッ!!
明るい真昼にも関わらず一瞬外が強い光に満たされ、次いで空気を震わせる轟音。
訓練された兵士はもちろん、大抵のことには動じない王太子でもさすがに肩を揺らして窓の外を見遣る。
そうだその手があった! と言わんばかりの絶望した表情で額の上に自分の腕を置く王子。
王子の動揺が招いた現象だろう、と兵たちは顔を見合わせた。
「・・・で? お前さんは、何だってそんなに慌てて?」
内心を押し隠した王太子に、白い顔を青褪めさせた第二王子は告げた。
「う、うま」
「馬?」
「馬が、欲しいのです」
「・・・羽が生えてたり、角がついてたりするやつか?」
「え? いえ、普通の」
「普通の?」
「はい、普通の馬が欲しいのです」
どうしたら良いのでしょう? とまだ整わない息の向こうから不安そうに訊ねる王子。
琥珀色の瞳を瞬かせた王太子は、首を傾げた。
「馬、怖いって言ってなかったか?」
「あの、てんし──」
「──天使?」
青かった顔を一気に紅くして口を押さえた弟の言葉に目を丸くした王太子は、横たわった大きな身体を持ち上げた。
ざわめく周囲に、視線だけで「持ち場に戻れ」と指示する。
立たせようとしたのだが、へにゃへにゃと脚に力が入らない様子の弟にそれを諦め、壁に凭れさせる。
「あの・・・シェラ、シェラ・ファロット伯爵令嬢が・・・」
「シェラ嬢が、馬欲しいって?」
「欲しいというか、馬に乗りたいと・・・」
「ふぅん」
何だかにやにやしている超絶美形の兄の顔を直視出来ず、王子は俯いた。
この兄には、邪険に扱われたことがない。
積極的に関わろうともしていなかったかも知れないが、表でも陰でも罵られたことはない。
それに勇気を得ての行動だったが、無謀だったろうか?
「いいぜ」
「──え?!」
「話聞かせな」
立ち上がった王太子は、今度は弟を立たせようとはせず、そのまま抱き上げた。
「うわっ! うわわ!!」
窓の外が強風でガタガタ言っているのも、きっと王子の動揺の現れだろう。
王太子は子どもを抱き上げるようにするとそのまま自分の執務室へ入ろうとする。
──あれが持ち上がるのかよ。
どこかから聞こえてきた声に王子の丸い身体がビクリと震える。
一瞬立ち止まった王太子は、声のした方にほんの少しだけ視線を流して答えた。
「──俺の女房より軽いぜ?」
表情は笑っているのに視線が冷たくて、兵士たちは顔を真っ青にした。
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「よお、アイアン・メイデン」
正面からかけられたその言葉に、シェラは脚を止めた。
そうして真っ直ぐこちらに向かってくる偉丈夫に、美しい笑みを向けた。
「まあ、近衛騎士団長様。ごきげんよう」
完璧な淑女の礼を取る伯爵令嬢に、団長はその男らしい顔を顰めた。
「・・・やめろ、お前に丁寧に挨拶されるとムズムズする」
「酷い仰っしゃりようですこと」
ぷん、と軽く頬を膨らませる様子も大層可愛らしいが、団長は鳥肌の立つ腕を擦り、彼の一歩後ろにいる副官は仕方なさそうに笑っている。
「本当にやめろ」
「お言葉そっくり返します」
一気に冷たくなる声音と視線。
背後からかけられた声であれば無視したものを、と忌々しげに団長を見遣る。
「漁食家の団長があのような暴言を淑女に吐くなど、知られたら遊び相手もいなくなりましょう」
「いや、淑女とか・・・」
「何ですか?」
虫けらでも見るような態度に、団長は大仰に肩を竦めた。
「お前は、本当に見た目と中身が伴わんな」
「余計なお世話です」
「黙っていればふるいつきたくなるような美女だというのに」
「──そういえば、殿下に余計なことを吹き込みましたね?」
冷たい、どころではない。
それはもう殺気だった。
反射的に身構え剣の柄に手をかけようとした団長の喉元に、ピタリ、と細剣の切っ先が突きつけられる。
抜刀の瞬間すら目に入らなかった。
「・・・おいおい。さすがにそれはまずいだろう」
「見られなければ良いのです。で? 殿下にいらぬことを吹き込んで、何が目的です」
「いらぬこと?」
「とぼける気ですか」
「そんなつもりはない。何のことだ」
「殿下に言われたのです──ドレスの下に隠している武器について教えてくれ、と」
凍てつくようなシェラの視線に晒された団長は「ほんとに言ったのか・・・」と愕然とし、副官は「春ですねぇ」と呑気に笑みを浮かべている。
「わたくしの立場はあくまであの方の話し相手です。それなのに・・・あの方は『やっぱり自分みたいな化け物には教えてもらえないのかな』と哀しそうな顔をなさるのです」
その時のわたくしの気持ちがあなた方に分かりますか? と。
きつく睨みつけながらも、その紫水晶のような美しい瞳には涙が浮かんでいる。
「まぁ・・・何だ、その・・・殿下も男だからな」
「男だから何だと言うのです。男はみな武器に興味を持つとでも仰っしゃりたいのですか?」
「そりゃあ持つだろう。若く健康な男子なら」
「殿下には知る必要のないことです」
「そんなわけなかろう! お前は殿下の気持ちを弄ぶ気か!」
「なぜわたくしが!!」
一触即発の様相を呈するふたりの横で、副官は懐疑的な顔つきになった。
「ふたりとも、ちょっと待って下さい」
ギンッ、と鋭く睨みつけられるが、そんなものはどこ吹く風。
いちいち気にしていたら、腕も家柄も抜群のエリート集団のくせになぜか悪ガキの溜まり場のようになっている近衛の副官(オカン)などやっていられない。
「あー。殿下は素直ですからね。団長の言葉を、そのまま伝えたのでしょう」
「・・・どういうことです」
「刺さないと約束して下さいます?」
「刺されるような内容なのですか」
「むしろ、わたしとしては女性の耳に入れたくない内容ですね」
「・・・殿下に何を言ったのです」
「シェラ嬢の考えるドレスの下の武器とは、その手にお持ちの細剣やナイフ──まぁ、暗器類のことでしょう?」
「それ以外に何か?」
「は? ナイフ?」
「団長はお静かに。軍のエリート集団とはいえ、近衛も若い男の集まりですからね。隠語と言いますか・・・つまり、ドレスの下の武器とは、女性の肉体のことですよ」
菫色の瞳が零れ落ちそうに見開かれる。
「特に若く美しいご令嬢であれば、その美貌や肉体は社交界でのし上がり生き抜くための武器となりますからね。それを自分の前に曝け出して欲しいという、まぁ、砕けた口説き文句です」
「・・・殿下は、その意味を・・・?」
「どうでしょうかね。ミステリアスな女性を口説くときの言い回しを教えただけで、解説はしてませんから」
「それならばあの方は──」
耳元でささやかれた言葉を思い出し、息を呑む。
ブワッ、と頬が熱くなる。
言われたときには青褪め、手が震えすぎて針を持てなくなった。
驚いたように目を瞠り、それから労るように見上げてきた青い瞳に、何と返したのか覚えていない。
──あれは・・・口説き文句・・・?
「なるほど、殿下の恋も前途多難ですね」
「というか、こいつら両想いだろう。何の障害がある」
コソコソささやきあう団長と副官の言葉は、シェラの耳に入らない。
「あ──あなたたちが余計なことを言うから、殿下を哀しませてしまったではありませんか!」
絶叫するシェラに、団長は胡乱な眼差しを向けた。
「ほお。では意味を正しく理解し、お前にも正しく伝えていたら受け入れた、と」
「なっ!」
「お前が馬に乗りたいというから猛特訓して軍馬を操り、ほとんど生まれて初めてやさしくしてくれたひとを守りたいからと全身痣だらけになりながら剣を習い、クッキーに野菜のペーストを混ぜて焼いてくれるお前のために苦手なものでも積極的に食べるようになった」
「・・・」
「そんな殿下の想いに応える用意が、お前にあると?」
「・・・」
「お前の言う通り、殿下の心根は美しい。ちょっと甘ったれではあるが、自分が決めたことは投げ出さない。俺の剣を捧げるのに、何の不満もない」
シェラは涙を零さないよう、奥歯をぐっと噛み締めた。
「・・・殿下を守るのはわたくしの剣です」
「だったら話し相手だなんて言わずに、護衛だと名乗ればいい」
「嫌です」
「どうしてでしょう?」
「殿下はきっとこう仰るでしょう。『わたしが強くなれば、シェラは護衛なんてしなくていいよね』と」
にっこりと微笑んで。
「それがわたくしを気遣う言葉だということは分かっています。ですが、殿下にまで剣を置けと言われたら・・・死んでしまう」
他の誰に何を言われようが、もう気にしない。
けれど、あの方にまで否定されたら、生きていけない。
「それはないでしょう」
副官の声に、シェラはゆっくりと顔を上げた。
「殿下はきっとこう言うと思います。『シェラがわたしを守ってくれるなら、わたしはシェラを守るから、ずっと一緒にいようね』と」
言われてシェラは、はっとした。
やさしくて、強くて、ちょっと甘ったれな殿下の、はにかむ表情さえ思い浮かぶようだった。
「まぁ、『でも、シェラが危ないのは嫌だなぁ・・・』と哀しそうな顔をして、あなたが絆される姿も目に浮かびますけどね」
くすっと笑う副官に、シェラは言い返せなかった。
だから、強引にではあったが話題を変えた。
「ほ、他にも殿下を惑わせるようなことを仰ったでしょう」
「どれだ。色々言いすぎて覚えておらん」
「あと2、3年もすれば女が目の色を変えて飛びかかる、と」
何だそれか、と団長は肩の力を抜いた。
「事実だろう」
「殿下はご自身にかけられた呪いの類ではないかと怖がっておいでです」
お可哀想に、と眉を寄せるシェラに、団長は珍妙な生き物を見る顔つきになり、副官は笑いを噛み殺す表情になった。
「・・・何がおかしいのです」
余計なことを言えば首と胴体が切り離されそうな殺気。
軍ではエリート中のエリートである近衛の、更に上澄みふたりは、一瞬視線を合わせると揃って両手を上げた。
「分かった、分かった。今度から殿下と会話するときは、婉曲的な表現は使わないようにする」
「全然分かっておられないようですね。表現方法の話をしているのではありません。余計なことは──」
団長を睨みつけていたシェラだったが、はっとして細剣を納刀した。
ふわり、とほんの少しドレスの裾が揺れた以外、何も目に入らない。
きっと細く白いであろう脚に、どれほどの数の暗器が仕込まれているのか。
「シェラーーーーー!」
自分の足で駆けても息を切らさなくなった第二王子の用件は、王太子妃殿下とのお茶会の誘いだった。
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悪意を放つ人間が多すぎて埋もれてますが、仔豚ちゃんは結構愛されてるですよ。