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「あーあ、大人げない・・・」
立ち上がる気力もないのだろう、地に伏している黒髪の青年は、その肩と背中を大きく上下させている。
それでも、手にした剣をグッと握っているところがいじらしい。
「ふん。まだまだだな」
副官の言葉に鼻を鳴らした偉丈夫は、尊大な様子で胸を反らしているが、全身汗塗れだ。
それでも、某伯爵令嬢の言葉ではないが、護るべき相手に剣で負けるなどあってはならない──王太子は例外だ、あれは規格外中の規格外だ、というのが近衛騎士団長の言だった。
「殿下、立てますか?」
ガキ大将のような団長に呆れた視線を向けた副官は、土と砂で白っぽくなった黒衣の青年を、ゆっくりと抱え起こした。
体重は以前とさして変わらないだろうが、体格はまったく別人と思うほどに変わった。
がっしりと広い肩、硬い腕、身体の厚みは半分くらいで、贅肉などどこにもない。
「・・・アス、ティ──けほっ」
「水です。飲んでください」
水筒を手渡せば、素直に頷いてコクコクと飲み干していく。
「俺には」
「あなたは自分で動けるでしょう」
「差別だ」
「区別です」
馬鹿なことを言って張り合ってくる団長を一瞥もすることなく、「ゆっくり飲んでください」と背中を撫でる。
「・・・大丈夫。ありがとう」
その言葉に嘘はないようで、呼吸は落ち着いている。
訓練用の剣を地面に突き立て、少しふらつきながらも立ち上がったこの国の第二王子は、腕組みをしている偉そうな男に一礼をした。
「ありがとうございました」
「いつでも受けて立つぞ」
その言葉にもぺこり、と頭を下げて、王子は訓練場をあとにした。
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あまりにも汚れすぎていてそのまま自室に帰ることが躊躇われ、王子は周りに人目がないのを確認して水の精霊を喚んだ。
頭から足の先までびしょ濡れになったが、火照った身体には心地よかった。
軽い擦過傷は、ついでとばかりに水の精霊が癒やしてくれた。
「ありがとう」
有り余っている魔力のほんの一欠片を精霊たちに分けてやれば、嬉しそうに還っていく。
マメが潰れた手を見て、魔法ならばいくら使っても疲れないのにな、と嘆息した。
「水も滴るなんとやらだな」
唐突に声が掛けられて、王子は肩を跳ねさせた。
けれど、知った声だったのでその美貌に笑みを浮かべた。
「──兄上!」
自分が知る男の中で、文句なしに一番かっこいいと思う兄の登場に、王子は仔犬のように駆け出した。
ほとんど意識することもなく火と風の精霊を喚び、全身を乾かしてもらう。
第二王子はその髪があまりにも真っ黒だから忌避されているが、類稀な美貌の主という意味ではよく似た兄弟であった。
弟は、ここ数年関わることが増えた兄のことが大好きだった。
王太子に恋をしない女はいないと言われる優れた容姿、国一番の剣の使い手とされる鍛えられた長身、政務も外交も涼しい顔でこなす頭脳、公正な瞳は光の加減で金色にも見える琥珀色。
「うわっ!」
「──おっと」
足がもつれて転びそうになったが、危なげなく抱きとめてくれる腕には頼もしさしか感じない。
「大丈夫か?」
「はい。さっきまで団長と稽古していたので、思ったよりも足が動かなかったようです」
「あぁ。それで水浴びしてたのか」
触れている服も、そっと撫でてやった髪もすっかり乾いている。
「どうだい、デートは近付いたか?」
ニヤリ、と人の悪い笑みを浮かべても魅力的な兄の言葉に、弟王子は思わずしゅんとなった。
「・・・団長は、力でゴリ押ししてきます」
「だな」
「剣筋は見えます。次にどう動くかも読めます──でも、ものすごく一撃が重いんです」
王太子には敵わないものの、近衛のトップを任されるくらいであるからその強さは誰もが認めるところだ。
「見えたところで、重すぎて打ち合えない。流そうとしても、そのまま押し切られることが多くて」
「最近、女王にも稽古つけてもらってるんだろう?」
王太子と王太子妃は、その出逢いが少々特殊であったことから、互いを『女王』『海賊』と呼び合う。
夫婦喧嘩は殴り合いに発展することさえあるが、仲が良くていいなぁ、と王子は兄夫婦を羨ましく思っていた。
「はい。義姉上の剣も重いですが、片手剣ですし、槍術が得意だから剣でも突きを多用してきます。手数が多いのでさばくのは大変ですが、何というか・・・動きはとても素直です」
「──ぶはっ」
思わず吹き出した兄の様子に首を傾げた弟王子であったが、「続けな」と言われて頷いた。
「団長のように、起こるはずの結果と違うというのは、他の人だとほとんどなくて」
「ふぅん。なるほどな」
「兄上?」
王太子の方が少し背が高く、兄は視線を上げて見つめてくる弟の髪を、ワッシワッシと撫でた。
「明日、半刻くらいなら時間が取れる」
「はい・・・?」
「俺も訓練に混ぜてくれ」
「──本当ですか?!」
ぱぁぁぁぁっ! と藍色の瞳が輝く。
兄が戦の天才だという話はいくらでも聞くが、実のところ手合わせをしたことは一度もない。
自分と違ってあまりにも多忙な兄を煩わせるのも気が引けて、でも、誰よりも強い男になれれば少しは興味を持ってもらえるのではないかと、デートの条件を兄に話した。
一瞬ぽかん、とした顔をされて、やはり無理かとしょんぼりしたが、やさしい兄は笑って請け負ってくれた。
「頑張ります!」
そのときと同じ言葉を返してくる弟王子の眩しいほどの笑顔に周りの緑が濃くなった気がして、王太子はもう一度眼の前にある頭を撫でた。
+++++
──そして、黒髪の王子は今日も地に伏している。
兄が天才だと言われる理由が、少し分かった気がした王子だった。
最初は、アスティンの剣に似ていると思った。
剛の剣ではなく、柔の剣。
無理に押してくることはなく、型に沿った生真面目な剣だ。
けれど、それであれば勝ち目もある──そう思っていたのだが。
「ははっ。本当に近衛並みに強いんだな」
笑った兄の剣が急に重くなって、「え?」と思ったときには柄から手が離れた。
すぐに拾って打ち込めば、これまでとは別ものの、強く鋭い剣で受けられる。
隣国から嫁いできた女傑は王子と変わらないほど背が高く、兄曰く丸々としていた頃ですら王子の方が体重が軽く、近衛の騎士たちが「え? あなたも護衛必要ですか?」と呆れるほどに強い。
義姉上の剣、と気付いたときには腰のベルトの金具の上を突かれて背中から倒れた。
頭が混乱したが、それでもほとんど無意識に剣を拾い、構える。
「お前、すごいな」
「・・・ありがとうございます」
ひと太刀も入れられないのになぜ褒められたのかは分からないが、王子はぐっと表情を引き締めた。
王太子の全身からは力が抜けているようなのに、こちらから仕掛ければ即座に反応される。
手数を増やして隙を作ろうとしても涼しい顔で受けられ、ほんの少しでも剣先をずらせれば、と思っても力で戻される。
そう、団長の剣がこんな感じだ。
脇腹を強かに打たれた瞬間、突風が吹いた。
春の嵐のようなそれに、固唾を呑んで兄弟王子のやり取りを見ていた騎士たちもよろめく。
「・・・すみません」
第二王子の感じた痛みか動揺が起こしたのだろう、と皆気付いた。
剣の訓練をしているとき、意図的に魔力を使うことはしていない。
けれど、今のように不可抗力で発動してしまうことは時々ある。
「もう一度、お願いします」
顎に伝う汗を袖で拭いながら、王子は王太子へ向かっていった。
勝つビジョンはまったく見えない。
それどころか、太刀筋すらも定まらない。
誰かの剣に似ていると思ったら型が変わり、反応出来るようになる前に別人の太刀筋になる。
──遊ばれている。
そう思ったら悔しくて、第二王子は持てる最大限の速度でがむしゃらに、ひたすら打ち込んだ。
「そうだ! もっと打って来い!」
返事なんてしている余裕はなくて、だから王子は剣で返した。
唐竹、袈裟斬り、左袈裟、逆袈裟、右薙、左薙。
訓練用に刃を潰しているが、鉄の塊だ。
それを木刀のように片手で扱う王子たち。
「うちの王子様方は、とんでもないですね・・・」
ボソッ、と副官が呟くのに、団長は「ふん」と鼻を鳴らすだけに止めた。
王太子が鬼のように強いのは皆知っている。
一騎当千とはあの方のためにある言葉だ、と言われるほどだ。
第二王子とて近衛騎士に混じって訓練をしているから、瞬く間に副官と互角にやりあえるほどになったことは分かっている。
分かってはいるが、王族警護を主な任務とする生え抜きの騎士たちが、剣を持ってたった3年の青年に負ける──誰もがあり得ないと思うだろうが、この光景を見ても同じことを言えるものはいないに違いない。
「・・・しかも、だんだん動きが良くなってませんか?」
誰、とは言わずとも分かる、弟王子だ。
息は上がっているし、時々足ももつれそうになっている。
それでも、いつもぽやっとしているのが信じられないほど眼光は鋭く、王太子がほんの一瞬でも隙を見せないか、虎視眈々と狙っている。
王太子の方はまだまだ余裕で、弟が次にどこへ打ち込んでくるのか分かっているように、危なげなく剣を合わせていく。
「──そろそろ時間だぜ、っと!」
「うあっ!」
当たれば確実に骨が砕けるほどの力で袈裟懸けに振り下ろした刃は、王太子の剣が触れるか触れないかで弾かれたように見えた。
取り落とすまいと握りしめていたため、第二王子は弾かれる剣に腕を持っていかれ、背中から地面に落ちた。
身体を固くして勝敗の行方を見ていた騎士たちは、何が起きたのか分からなかった。
「見えましたか?」
「見えんな」
副官が団長に問いかけるも、そんな返事しか返ってこない。
当事者たちはと言うと、王太子はほんの少し息を見出しているが、それだけ。
第二王子は大の字に倒れたまま、荒い呼吸が収まらないようだ。
「バルロ、あんたあと半年くらいしたらヤバそうだな」
「まだまだ──と言いたいところですが・・・あまり殿下に稽古をつけんでください」
近衛騎士団長の言葉に王太子は鷹揚に笑い、副官は瞠目した。
負けず嫌いの団長が、第二王子に負ける未来を見たのだ。
「起きられるか?」
王太子が手を伸ばせば、ぐったり横たわっていた第二王子は目を開けたものの、その手を掴もうとして──全然腕が上がらなくて諦めた。
だから、王太子自ら膝をつき、背中と肩を支えて抱き起こしてやった。
「まだ身体がついて来ないんだな」
「あなたには大抵の人間がついていけないと思いますが」
そういう意味でないのは分かっているだろうに、団長はムスッとした顔でそんなことを言った。
「・・・身体が、ついていっても・・・あれは、防げない、気がします」
肩を上下させながらの言葉に、王太子は面白がるような顔つきになった。
「見えたか?」
「見えたところで、結果は同じです」
「いや、そもそも見えるのがすごいって話だ」
「──え?」
弟の訝る視線を受け、王太子は周囲に居並ぶ騎士たちに、なぜ第二王子の剣が弾かれたのか訊ねた。
誰も──副官や団長ですら、答えられなかった。
「お前には見えたんだろう?」
「もちろん」
「何で弾かれた?」
どうして兄上はこんなことを訊くのだろう? と不思議に思ったが、第二王子は呼吸を整えて目にしたままを答えた。
「切っ先をエッジに当てられたからです」
ザワリ、と声が上がる。
まさか、さすがにそれは、いやしかし。
王太子の剣技を知る近衛の騎士たちであったが、周りの同僚と「出来るか?」「馬鹿言え」などと言葉を交わしている。
「・・・剣の腹で押し返されたのではなく?」
「たぶん、それならもう少し堪えられた」
副官の言葉に、第二王子は首を振った。
「振り下ろす勢いが強かったから、弾かれる反動も大きかったんじゃないかと」
思います、と言おうとした弟の黒髪を、王太子はぐしゃぐしゃになるほど撫でまくった。
ふわりと暖かな風が吹いて、まだ芽吹くには早い花がいくつか開いた。
「お前は目がいい」
弟の形の良い頭に両手を添えるようにして、王太子は笑った。
「頭もいい。剣を交える相手の癖を見抜いて、どうすれば効率的に無力化出来るか考えられる」
でもな、と続けられる兄の言葉に、第二王子は真剣な表情を向けた。
「頭で考えてたら、遅いんだ」
「遅い・・・」
「さっきのは、どうやって対処したら良かったと思う?」
少し考える顔つきになった第二王子は、ふ、と顔を上げた。
「エッジではなく、剣の腹を当てていたら違ったと思います」
「あぁ、いいな。それなら、あの動作から最小限の動きだ」
当たる面が大きくなれば、競り勝てたかも知れない。
「ただ、分かっていてもあの一瞬でその判断は下せません」
「それが出来るようになったら、俺に勝てるぜ?」
「・・・・・・」
にっこりと笑みを浮かべてくる兄に、弟はものすごく複雑な表情になった。
『万能の天才』と言われる兄は、剣技ですら様々な型を身につけていることが分かった。
遊ばれていたというより、指導をしてくれたのだと今であれば理解できるが、どんな型で来るのか分からないと動きを読みきれない。
「兄上すごいなぁ」と誇らしくなる一方、「何でこのひとから一本取るなんて言っちゃったんだろう」と後悔もしていた。
へにょり、と第二王子の美貌が情けなく歪んだ途端、雲が出て日が陰る。
「そんな顔すんなって。頭で考えなくても身体が動くようになったら、団長なんて秒殺だぜ?」
「秒ということはないでしょう。あなた相手でも1分くらいはもちます」
第二王子は愕然となった。
「・・・1分しかもたないのですか?」
「おい」
「ぶっ」
団長が鬼のような形相になるのと、その副官が思わず吹き出したのは同時だった。
「わたしは、まだまだ団長に及びません。兄上は、その団長を1分とかからず倒してしまうのですか?」
「そうだなぁ」
のんびりした様子で答える王太子だったが、物騒なことを言うなら、殺しても良いのならもっと早く終わる。
全力を出しても訓練の域を出ないのなら、そのくらいの時間になるだろう。
「・・・そうですか」
俯いた王子の様子に、一瞬諦めるのか、と思った王太子であったが。
「──団長に勝つまで、お菓子食べません!!」
ぐっと拳を握って気合をいれた第二王子の宣言に、騎士たちからは「おおー!」と歓声が上がった。
以前とは比べ物にならないほどに引き締まった身体になった王子であったが、今でもお菓子は大好きだ。
けれど、今回はそれくらい本気だということなのだろう。
騎士たちの間から「がんばれー」「やっちまえー」「俺たちの分もー」といった野次が飛ぶと、団長は獰猛な虎のような顔つきになり、副官はとある女性を思って苦笑した。
──殿下がお菓子を召し上がらないなんて・・・。
近衛騎士たちの間では王太子妃と並んで物騒だと言われる見た目天使な淑女は、翌日、武装した屈強な男たちに囲まれるよりもよほど恐ろしい思いをするのだった。
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兄上最強。