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紫紺の装束を身に纏った陰陽師の男はどこか疲れた様子でチェロを抱え、青白い着物に身を包んでいる小柄な雪女はにこにこと楽しそうにヴァイオリンを手に下げ、そしてピアノの前には──。
──雪男・・・?
──イエティ・・・?
「「──アーちゃん、ム。クだ!」」
全身毛むくじゃらで目玉が飛び出した赤いもふもふ。
ハロウィンパーティは愛らしい子どもたちからの「トリック・オア・トリート」のおねだり攻撃から始まり、シェラが腕によりをかけて作ったカボチャ尽くしの料理に舌鼓を打ち──そして今、演奏会が始まろうとしている。
──陰陽師と雪女の子だから・・・雪男?
──にしても、なぜあのフォルム・・・
──食事しているときまでは腕と脚にもふもふをつけただけの姿だったのに・・・。
全身を極太の毛糸のような体毛で覆われ、グローブによって厚みが出た手と太い指は、とても演奏が出来そうには見えない。
楽器に触っているときは楽しそうな表情をすることが多い青年だったが、今はその端正な顔すらぬいぐるみのような毛だらけの被り物に覆われている。
「・・・おい、ヴァンツァー」
「要望通りに作った」
嘘吐け、と思ったシェラだったが、文句を言おうと開いた口は──ポカン、と開きっぱなしになった。
ポーン、ポーン、ポーーーン、と右手がタッチを確かめるように鳴らされ、その音が消えかける寸前──。
高音から低音にかけてのグリッサンドで始まったのは、有名なタンゴの一曲。
音が激しく上下する特徴的なリフで細かく音が刻まれるその曲は、「L
ibertad」の言葉の通り躍動するリズムと情熱的なエネルギーに満ち、スタッカートは何かに追い立てられるような若者の焦燥感を、ゆったりと謳い上げられる主旋律は深く昏い大人の情念のようなものを感じさせる名曲だ。
鍵盤などまともに叩けそうもない──少なくとも、ふたつ3つ一緒に押してしまいそうな分厚いフェルトの指が、細かく弾むように、また滑るように鍵盤の上を踊る。
一瞬で聴衆の意識をかっさらった毛むくじゃらを、陰陽師の男は呆れたような表情で、雪女は楽しそうな顔で見ている。
──アリスって、意外と人の気を引くの上手いんだよね。
まぁ、楽器触ってるとき限定だけど、と胡乱な表情になったカノンだったが、弦の音が加わった途端シャキンッと背筋を伸ばした。
重なるチェロとヴァイオリンの低音のあまりの艶やかさに、ゾクッ、と身震いする。
特にヴァイオリンだ。
直前まで無邪気な表情を浮かべていたというのに、今はトランス状態にあるように雪女の緑の瞳はどこか遠くを見ている。
そして、いつもどちらかといえば人の音をサポートするように奏でる青年が、今はピアノでヴァイオリンと丁々発止のやり取りをしている。
チェロが専門だから、というのが青年の口癖だったが、周囲のものは皆こう思っている。
──他が苦手だとはひと言も言ってないけどな。
事実、ヴァイオリンでもピアノでも、サックスでもフルートでも、並の演奏家は裸足で逃げ出す腕前だ。
圧巻の演奏が終わって拍手が起こると、ヴァイオリニストは元のにこにこした表情に戻り、マエストロと呼ばれるチェリストは軽く頭を下げた。
「──アル」
惜しみない拍手を贈っていた美貌の吸血鬼が、全身毛むくじゃらの青年に声を掛けた。
「はい」
その声は確かにアリス・キニアンのものだったが、ぬいぐるみの頭を取ろうとは思わないらしい。
「今の曲、チェロで頼む」
「えっ・・・えええー・・・」
彼が不服そうな声を上げるのは珍しい。
穏やかで礼儀正しい青年は、兄とも慕う男の言葉には大抵頷く。
ただ、演奏中やその直後は、いつもよりも感情に素直になるようだ。
「俺、この手ですよ?」
ずいっと突き出した十本の指は、普段の彼の指の倍くらいの太さがありそうだ。
「弾けたじゃないか」
「ピアノとチェロはまた違います」
「ピアノでもいいが、チェロの方が見やすいと思うぞ」
「──見る?」
食いついてきた青年に、ヴァンツァーは先程のタンゴの音色もかくや、というような妖艶な笑みを浮かべた。
「余興ついでだ。素晴らしい演奏の礼に、シェラと踊ろう」
「──お」
「──やります!」
「・・・・・・」
痛む頭を抱えたシェラだった。
「アー君」
「ヴァンツァーとシェラのタンゴなんて、絶対かっこいいですよね!」
毛むくじゃらのイエティが、その飛び出た目玉をきらきらさせて──たぶんしている──父親から席と相棒を譲ってもらっている。
可愛い子どもたちやその伴侶のおねだりには滅法弱いシェラだったので、「うぐっ」と変な声が出た。
「・・・だが」
「何のために裾を捌きやすくしたと思っている」
「焼身自殺の痕だろう」
「出来ないとでも?」
「普通出来ん」
「リードは得意だ」
そんなことは嫌というほど知っているが、何の打ち合わせもなくいきなりタンゴを踊れと言われても。
「少しくらいれんしゅ──」
妥協点を探ろうとしていたらグッと手を引かれ、背中に添えられた大きな手と厚い胸板に身体を挟まれる。
文句を言おうと見上げた瞳の冷たさへの恐怖と、だがその奥に巧妙に隠された熾火のような熱を見つけてしまった高揚に、一瞬すべてが頭から吹き飛んだ。
逸したいのに目を逸らせない。
しばらく無言で見つめ合い、す、と青い瞳が眇められたことでようやく顔を背けることに成功したシェラだったが、それが合図だったかのようにステップが刻まれ、ヴァイオリンとチェロの音が生まれた。
緩急の付けられた動きに戸惑ったのは一瞬で、何の打ち合わせもしていないというのに身体は勝手に動いた。
哀愁漂う弦の音に切なさが掻き立てられ、逸したはずの顔は冷酷と熱情を同時に宿した藍色を求めて引き戻される。
一度見つめてしまえばその美貌に囚われ、支配されることに仄暗い悦びを覚える。
──あぁ、このまま連れ去ってくれたら・・・。
そこが黄泉の国でも構わない。
倒れ込むように背を反らしたのと、男が覆いかぶさってくるのとどちらが先だったか。
力強く掻き鳴らされていた弦が、フィニッシュの音を刻みやがて空間に溶けていく。
ドクドクと激しく上下する心臓の音が耳元で聞こえるようで半ば呆然としていたシェラだったが、見上げた美貌がふ、と笑みを刻んだことではっとした。
「やれば出来るじゃないか」
グッ、と引き起こされ、それでもホールドの姿勢を解けずにいたシェラだったが。
「かっ・・・・・・っっっけーーーーー!」
「すっごーーーーーい!!」
真っ赤な毛むくじゃらの雪男が手足をバタバタさせて喜んでいる横で、雪女もぴょんぴょん飛び跳ねている。
「ヴァンツァー、すごいです! めちゃくちゃかっこ良かったです!!」
「ありがとう」
珍しく大興奮の様子の婿殿に、ヴァンツァーはくすっと笑った。
「いきなりあんなに踊れるなんて、さすが夫婦ですね!!」
ヴァンツァーとシェラの踊りを褒めまくっているキニアンだったが、周りで見ていた人間は皆思っている。
──いや、お前もその手でどうやって弾いてたんだよ・・・。
と。
「・・・アリスこそ、何で弾けるの」
「へ?」
「弾けてたじゃん」
「いや、そこはマリアがすごいんだよ。音取れてなかったけど、マリアが同じようにズラしてくれたから合ってるように聞こえただけで」
合わせるのに4小節かかった、と肩をすくめる毛むくじゃらの言葉で、小柄な雪女に注目が集まる。
着物姿のヴァイオリニストは、無邪気に笑ってこう言った。
「ヴァイオリンは、ちょっと得意なの」
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知ってます。