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──負けるわけには、いかないのに・・・。
形の良いちいさな頭の中は、目まぐるしく回転している。
けれど、いくら考えても盤面をひっくり返す良い手が浮かばない。
「よお。どうした──swot?」
ニヤニヤ、と。
意地悪く頬を歪める、太い縁の眼鏡を掛けた大柄な少年の前には、黒い天使。
もともと色白だけれど、青白いほどの顔色で盤面を見ている天使の様子を、3対の瞳が見つめている。
「意外と大したことねぇな」
「まぁ、ゲームなんだし、そんな真剣になるなよ」
「投了したらどうだ?」
嘲笑の声にも耳に入らないくらい考えに考えに考えても、どれほどあがいても、15手先には投了する未来しか見えない。
「・・・」
──ありません、と。
そう言った瞬間、天使は大事なものを失う。
とても、とても大事なものだ。
それが嫌で、悔しくて、盤面を睨みつけながら膝の上で拳を握った。
「・・・あ」
「──フーちゃ~~~ん! かーえーろっ?」
はっとして顔を上げたフーガは、教室の入り口に同い年の兄を見つけ、泣きそうになって奥歯を噛み締めた。
席から立とうとしないフーガに首を傾げたロンドは、とことこ弟の背後にやってきた。
見下ろした真っ直ぐな黒髪は、同じ色の飾り気のないゴムでひとつに結ばれている。
「ゲームしてるの?」
「・・・うん」
ちらっと盤面に目を遣ったロンドは、「ふぅん」と呟いて背中側からフーガを抱きしめた。
「ゲーム終わるまで帰れないの?」
「・・・・・・うん」
ちいさく頷く弟に「そっか」と返し、「じゃあ、終わるまでぼくもここにいるね」と抱きついたままにこにこ笑った。
向かいの席にいる少年たちはロンドの登場に少し苛立った様子だったが、その優位は揺るがないので薄笑いを浮かべた。
「ほら、早く打てよ」
「・・・」
ぐっと肩に力の入ったフーガだったが、次の瞬間息を呑んだ。
顔にはほとんど出なかっただろうが、ドクドクと心臓が音を立てる。
「打つところがあるならな」
ケラケラと笑う少年たちを一瞬だけ睨んだフーガは、握りしめていた拳を開き、右手で白石をひとつ摘んだ。
パチン、と澄んだ音を立てて置かれた石を見ても、3人の少年たちはニヤニヤしたまま。
盤面の前に座る眼鏡の少年は、フーガの1手からさして時間を置かずにパチッ、と黒石を打った。
「けっ、まだ悪あがきすんのかよ」
「どこに置いたって、勝てやしねぇってのに」
眼鏡の少年の横に立っているふたりが、囃し立てる。
フーガは無言で、盤面に白石を置いていく。
「・・・は?」
フーガと打ち合っていた少年の顔色が変わったのは、6手後。
一瞬ぽかん、と口を開けた少年は、次の瞬間眉間に皺を寄せると些か乱暴に黒石を置いた。
逆にフーガは淡々と白石を置いていく。
少年がどのような手を打つか読んでいたように、考える間もなく。
その1手に、また少年の顔が歪んだ。
「くそっ」
焦りを見せる少年の様子に、両脇に立っていた少年たちが顔を見合わせた。
「お、おい・・・?」
「どうし」
「うるせぇ!」
怒鳴られた少年たちは、思わず一歩引いた。
落ち着きを取り戻したフーガとは違い、1手ごとに苛立ちを募らせていく眼鏡の少年。
そして──。
「え・・・? これって」
「は? 何で?」
立っている少年たちにも、黒石を持つ少年の明らかな劣勢が分かったのだろう。
10数手前には圧倒的優位どころか、相手の投了待ちの状態であったはずなのに。
「まだ、打つのか?」
静かなフーガの声に、黒手番の少年は憤怒の形相になった。
「てめぇ、どんな汚い手を使いやがった!」
「打つ手がないのなら、きみの負けだ。約束を果たしてもらう」
宝石のような紫の瞳に見つめられ、ガタンッ、と席を立った少年は握り拳を振り上げた。
「──あ~、あったー」
気の抜けた声がしたと思ったら、振り上げた少年の拳をロンドが掴んでいた。
少年の拳からは、ひらひらと白い布が溢れている。
手首を掴まれた少年は、ぎょっとしてロンドを見た。
拳を振り下ろすどころか、ピクリとも動かせない。
「朝してたリボンがなかったから、落としたのかと思った。きみが拾ってくれたの?」
「・・・っ」
次の瞬間、声にならない悲鳴を上げて、拳が開かれた。
いや、強烈な痛みとともに、勝手に開いていったのだ。
「・・・お、まえ・・・」
「ちょっと皺になっちゃったけど、汚れてないね。拾ってくれてありがとう」
にこにこ笑っているロンドにギリッと歯噛みをすると、オロオロしている少年ふたりに「行くぞ!」と声をかけて教室のドアへと向かっていく。
その様子を見送ったフーガは、詰めていた息を吐き出した。
背後では、ふんふん鼻歌を歌っているロンドが、弟の髪にリボンを巻いているところだ。
「ふふっ。やっぱりフーちゃんの髪には、白いリボンが一番だね!」
長めのリボンを器用に二重の蝶結びにしたロンドは、満足気に頷いた。
「・・・ロン」
「ん?」
「ロン・・・」
どうしたの? と問いかけたロンドは、見上げてくる弟の顔を見て目を瞠った。
「フーちゃん!」
シェラと同じ色の瞳から、涙が溢れそうになっている。
家族の前でははにかむように笑うけれど、学校では無表情。
幼い年齢に見合わない落ち着きがあるフーガだが、その心はとてもやさしく繊細だ。
「ロン・・・」
コロリ、と音がしそうなほど大粒の涙が白い頬を伝って、ロンドはあたふたしながら指先でその涙を拭った。
「ど、どしたの?」
「ロン・・・」
座ったまま、きゅっと腰に抱きついてくる弟の頭を、よしよしと撫でてやる。
「なに? どしたの? 何で???」
頭にハテナをいっぱい飛ばしているロンドに、ちいさくしゃくり上げながらフーガは「ありがとう」と言った。
「──へ?」
「・・・あり、がとう・・・──勝って、くれて」
「あー・・・うん」
よしよし、と結んだリボンを崩さないように、艷やかな黒髪を撫でる。
繊細なレースのリボンはシェラが編んでくれたもので、フーガのお気に入りだ。
「お、れも・・・勝てると、思って」
「うん。普通にやったら、フーちゃんが勝ったと思うよ」
あの、変に太い縁の眼鏡に、演算機能がついていなければ。
きっと、途中からフーガも気づいていたのだろう──けれど、退けなかった。
「汚い手はお互い様だよね」
フーちゃんは、ちょっとくすぐったかったかな? とロンドは笑う。
ふるふるっ、とフーガは頭を振った。
「ロンは、すごいな」
「んー?」
顔を上げたフーガは、ちょっと目が赤かったけれど、ほんのり笑みを浮かべている。
「俺は、チェスでも父さんに勝てないから」
囲碁なんて逆立ちしたって無理だ、と。
勝てない話なのに、その表情はどこか嬉しそうだ。
「いやー・・・チェスはぼくも結構コテンパンだけどなぁ」
「だってロンは、ダイアナともいい勝負するし」
相手はロストテクノロジーによる、宇宙最高峰の感応頭脳だ。
チェスより将棋、将棋より囲碁と、扱える局面が増えるほど機械より人間の方が有利と言われてはいるが、ロンドは囲碁で『ぶっ壊れ性能』のダイアナを唸らせる。
「ロンが来てくれて、良かった」
ほっとした顔で微笑むフーガに、ロンドも「フーちゃんが笑ってくれて良かった」と笑みを返した。
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ロンちゃんかっけー。