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ヴァンツァーは、この世界に生き返って30年近く、一度もシェラに告げたことのない言葉を使った。
「・・・お金を貸してください」
言われたシェラは、菫色の瞳を真ん丸にした。
「──は?」
ふたりで辺境の惑星へ旅行に来たのだが、タクシーの支払いを済ませようとヴァンツァーが運転手と二言三言──ちなみにシェラには理解出来ない言語で──交わしたあとに告げられたのが、それだ。
「お金?」
「現金」
「いくら?」
告げられた金額は大したものではなく、シェラは財布から紙幣を取り出して端麗な美貌を若干青褪めさせている男に渡した。
タクシーから降りたシェラは、何の気なしに訊ねた。
「ホテルに財布置いてきたのか?」
「いや・・・」
見上げた顔は背けられており、シェラは首を捻った。
「なるべく早く返す」
「いや、別にあの程度の金額」
本当に、ふたりでランチするにも満たない金額なのだ。
いつも外出するときは大抵ヴァンツァーがさっさと払ってしまうのでその暇がないと言うだけで、シェラは自分の財布を出すのが嫌だと思っているわけではない。
「両替忘れたのか?」
「いや・・・」
どうにも歯切れの悪い様子に、これ以上の追求はやめようかと思ったシェラだったのだが。
「・・・カードが、使えなかった」
「──へ?」
ヴァンツァーの持つクレジットカードは、不動産だろうが高級車だろうが購入出来る。
以前冗談で「宇宙船も買えたりして」とシェラが言ったときに、ヴァンツァーは少し考えてから「規模によってはいくらか事前振込みが必要かも知れない」と返した。
具体的な金額の上限はヴァンツァーも知らないらしいが、まぁ、おそらく数億であれば問題なく通るだろう。
タクシーの代金が払えないわけがない。
「読み取り機の調子が悪かったのか?」
ヴァンツァーは首を振り、大きなため息を零した。
「この星では、電子決済がほぼ利用出来ないらしい」
「・・・」
失敗した、とかつて見たこともないくらいに落ち込んでいる様子の夫に向けて、シェラは満面の笑みを浮かべた。
「なら、この旅の支払いはシェラさんにお任せなさい!」
「あ、いや」
「大丈夫だ! それなりの金額を用意してある!」
「いや」
「まず手始めに、お前の時計でも買おうか!」
「待て! ここへは独特の染色技術を──」
「あぁ、もちろんお前のスーツも仕立てるぞ! ネクタイとカフスとタイピンも!」
ものすごい笑顔でグイグイとヴァンツァーの手を引くシェラは、目についた店舗に片っ端からヴァンツァーを引き摺り込んだ。
「これいいな。あ! これも見せて下さい、それとこれも!」
「おい」
「ちょっとこれ着てこい」
「シェラ」
「さっさとしろ、次の服もあるぞ」
「・・・」
有無を言わさぬ勢いに、ヴァンツァーは渋々フィッティングルームへと向かい、出てくるたびに店員の女たちのいらぬ歓声に頭痛を覚え、4、5軒もはしごする頃にはゴリゴリと削られた精神力はほぼ無きに等しかった。
「・・・待て、さすがに少し休ませろ」
体力には自信のあるヴァンツァーだったが、別の疲労で倒れそうだった。
崩れるように街中のベンチに腰掛けると、シェラが売店で買ったと思しきアイスコーヒーを渡してきた。
「飲め」
「・・・」
無言で受け取るも、口をつける気にならない。
隣に腰掛けたシェラは、ジェラートを食べている。
爽やかなベリーの香りがして、ヴァンツァーは薄っすらと瞼を持ち上げた。
「・・・ひと口くれ」
「ん?」
「それ」
「これ?」
こくん、と頷く黒い頭に「珍しいこともあるものだ」と思ったシェラだったが、スプーンでひとすくいして、口許に運んでやる。
大人しく口を開ける様子が何だか可愛らしく思えて、頬が緩む。
「美味いだろう」
これまたこくん、と頷く様子に、何だかきゅんきゅんしてしまったシェラだ。
「もっと食べるか?」
これには否定が返る。
少し残念に思ったけれど、残りは自分の腹に収めた。
ヴァンツァーがだらしなくベンチに凭れ掛かる様子など普段は絶対に見られないので、ほくほく顔のシェラだ。
「夕飯、どうする?」
まだ夕暮れまでに時間はあるが、この辺りで食べるのでも、ホテルへ帰ってからレストランへ行くのでもいい。
間髪入れずに「帰る」という返事があり、シェラはヴァンツァーの顔を覗き込んだ。
「ヴァンツアー?」
ふいっ、と顔を背けるところを見ると、拗ねているらしい。
思わず手足をジタバタさせそうになったシェラだったが、出来る限り平坦な言葉で訊ねた。
「立てるか?」
先に立ち上がり手を差し出すと、その手とシェラの顔を交互に見遣ったあと、ヴァンツァーは手を伸ばした。
シェラが引っ張り起こす形で立ち上がらせ、向かい合うふたり。
「疲れたか?」
「疲れた」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「本当に?」
「あぁ」
真剣な顔をしながら、ヴァンツァーは「反省している」と言った。
「反省?」
「・・・帰ろう?」
どこか子どものような調子で手を差し出してくる男に、シェラは笑顔で頷いた。
もちろん、帰りのタクシー代もシェラが支払った。
タクシーの中ではずっと窓の外を見ていたヴァンツァーだったが、手は繋いだまま。
先に部屋へ行っていてくれ、と言うので、ヴァンツァーをカウンターに残し、シェラは最上階行きのエレベーターに乗った。
部屋の支払いがカードで出来るのかを確認しているのかも知れない。
5つ星ホテルとはいえその国独自の文化はあろうから、「別にいいのになぁ」と思ったシェラだった。
「あんな、この世の終わりみたいな顔しなくたってさ・・・」
たまには、自分だってヴァンツァーを喜ばせてみたい。
そう思いながら室内に入る。
ふたりで使うには多すぎるくらいの部屋数だったが、最高級品で揃えられた調度も、埃ひとつ落ちていないカーペットも、ピカピカに磨き上げられたバスルームも、24時間体制のコンシェルジュやルームサービスも、自宅と同等かそれよりも寛げる空間を、とあの男が選んだものだと知っている。
休みの日に子どもたちの面倒を見たり、食事の用意までしようとしてくれる男に「休日くらい休んでくれ!」と言えば、不思議そうな顔でこう返してくるのだ。
「お前も休め?」
と。
俺は子どもと遊んでいるだけだ、と嬉しそうな顔で我が子をへばりつかせている様は、嫌々でも義務でもなく、本当に「そうしたい」と思っているのだろう。
その子どもたちは、リィとルウのところにお泊りだ。
「ちょっとデキ過ぎなんだよなぁ、あいつ」
今回の旅行も、目的の半分は視察だ。
この惑星のこの地域の沿岸で採れる貝の真珠層を削り、染料とする技術、それを学びに来た。
養殖も出来る貝だが、天然物は赤みが強く、養殖物は青みが強い。
また、天然物の方が色素の定着度合いが高く、色褪せが少ない。
そして、非常に薄付きの色味で、どれだけ重ね塗りをしても色味が濃くならない。
「現地で見たい!」とねだり倒して連れてきてもらったシェラだが、旅の目的のもう半分は、あの男の休暇だ。
「現金しか使えないなら、私にも分がある」
ふふふ、とちょっと悪い顔で、中身は非常に善良なことを考えるシェラ。
しばらくして戻ってきた男に飛びつくようにして笑顔で出迎えれば、衰えを知らぬ美貌に微笑を乗せたヴァンツァーが額にキスを落としてきた。
──あれ・・・機嫌直ってる・・・?
熱烈に歓迎したからだろうか? と首を捻ったシェラの横を抜け、ヴァンツァーはリビングのテーブルに紙幣と硬貨を並べた。
「え」
それを見たシェラは、「なぜそんなものがここに」という顔をした。
「これがタクシー代」
「え」
「これがジャケット」
「え」
「スーツ」
「え」
「ネクタイ、カフス」
「え」
「それから、時計」
「え」
「アイスコーヒーとジェラートは・・・──ごちそうさま」
「えーーーーーー!!!!」
にっこりと笑みを浮かべた男は、硬貨一枚分の狂いもなく、この日シェラが使った金額をテーブルに並べて見せた。
きっちり、アイスコーヒーとジェラートの分は抜いて。
「・・・」
結構な額を使ったのだが、財布の中身がほぼ戻ってきた。
なぜだ、と愕然としているシェラは置いておいて、満足そうな顔をしたヴァンツァーはソファに腰掛けた。
「・・・どんな手を使った」
少額硬貨一枚持っていなかった男が、魔法のように現金を用意した。
余裕の表情を見る限り、おそらくシェラに渡した以外にも相当な額を手にしているはずだ。
「別に」
「吐け」
「特別なことは何も。このホテルのスタッフが優秀だったというだけだ」
5つ星ホテルの従業員は、決して客の要求に対して否定の言葉は使わない。
もしも無理難題を突きつけられたとしても、代替案を示す。
「あぁ、それと」
今思い出した、とでもいうように、ヴァンツァーはシェラのいる場所へ戻り、並んだ紙幣の横に小箱を置いた。
「・・・何だ、これは」
非常に嫌な予感がする。
「今日1日、とても楽しかった」
嘘つけ! と言いそうになったシェラだったが、言っても無駄と思い小箱を開けた。
予想通り、七色に輝く石のついた1組のピアス。
ため息を零したシェラだったが、大丈夫、今回は現金を持っている。
ヴァンツァーがそうしたように、これで返してしまえばいい。
「いくらだ」
いつもはのらりくらり、とかわされてしまう質問に、ヴァンツァーは笑顔で答えた。
──~~~、こいつっ!!!!
なぜ私の手持ちを知っている! と憤慨しそうになったものの、深呼吸をしてどうにかそれを収めた。
「・・・ありがとう。これはディナーのときにでも着けよう」
おや、という顔をされ、自分の判断が間違っていなかったことを悟るシェラ。
「でも、このピアスに合うようなドレッシーな服は、持ってきてなかったなぁ」
ほう、と頬に手を当ててため息を零す。
おねだりの視線を向けると、心得ている、とばかりにヴァンツァーは頷いた。
──ようは、さっさと使わせてしまえばいいのだ。
ふふん、と得意げな顔でドレスを吟味するシェラ。
あの短時間で用意出来る金額だ、返してもらった分と、ピアスの分を合わせれば、残りは自分の手持ちとさして変わらないだろう。
「靴も買っていい?」
「どうぞ」
「このドレス可愛いけど、胸元がちょっと寂しいかな・・・ネックレスも、買っていい?」
「あぁ」
次々と気に入った商品の購入を決めていくシェラは、ひとつ忘れていたのだ。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
笑顔で支払いを済ませる自分の夫が──時間さえあればいくらでも用意出来るのだったと思い出すのは、翌朝のことだった。
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「セントラル銀行から、預金を引き出したいんだ」
「承知いたしました。金額は──」
「1億」
「・・・恐れ入りますファロット様。少々、お時間を頂戴してもよろしいでしょうか?」
「ふむ。10分で用意出来る金額は?」
「それであれば・・・」
「あぁ、では残りは明朝までに」
「──かしこまりました」
・・・うん、シェラ、頑張れ。