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シェラがその場所を訪れるのは、今回が初めてだった。
「お邪魔します」
部屋のドアが開き、閉まると、ようやく喧騒が消えた。
人の視線や噂をする声には慣れているが、目の前にいる男が一緒だとそれが数倍に膨れ上がる。
気のせいではなく、それは事実だ。
寮の敷地に入ったときも、周囲の視線はうるさかった。
「誰かの彼女か?」とか「あんな美人うちの学校にいたか?」とか。
それが、シェラを迎えに出たのが黒髪長身の美青年と見たときの周囲の反応ときたら。
「・・・お前は、大学生になっても凄まじい人気だな」
「何の話だ?」
「何でもない」
「適当に座っていろ」
シェラを迎え入れたワンルームの主は、黒い薄手のセーターをその下のシャツと一緒に捲った。
そのまま、キッチンと呼ぶには水道と備え付けの棚以外に何もない場所へ向かう。
「ヴァンツァー? 何を?」
「茶くらい淹れる」
「──いや、私は」
「客をすぐに追い返すほど、非常識ではないつもりだ」
「・・・」
背中越しにそう言われ、シェラは軽く部屋を見回した。
座れと言われても、部屋にあるのは勉強机とベッドくらいだ。
ラグでも敷いてあればそこに座っただろうが、シェラは手にしたバスケットをぎゅっと握り、ため息を零した。
あまり人の部屋をジロジロ見るのは褒められたことではないが、連邦大学惑星の学生に割り当てられる寮は、個室とはいえそう広くない。
見ようと思わなくても、すぐに全体を把握出来てしまう。
間取りや調度はどこもあまり変わらない。
勉強用の机、椅子、ちいさな書棚とベッドにクローゼット、それくらいだ。
勉強机の上のブックエンドには数冊の参考書や辞書、ノートが立てられ、机にはレポートや調べ物にでも使うのだろう電子端末、ペン立てとちいさな置時計に腕時計が置かれている。
書棚の上にはオーディオ機器が置いてあり、その下にいくらかの薄手のケースがあった。
おそらく、ヴァンツァーが好む音楽家のものなのだろう。
音楽にさして興味のないシェラにはそれが誰のものかは分からなかったが、多忙を極める男の僅かな癒やしがこれらの円盤なのだと思うと、なぜだかほんの少し、寂しい気分になった。
「何か聴くか?」
「──えっ?!」
気配なくすぐ背中側から声が聞こえてきて、シェラはビクッと肩を震わせた。
振り返ると、茶器を手にした男が立っていて目を瞠った。
意識して気配を殺していたわけではないのだろう、気付けなかったのは、シェラの失態だ。
「何だ?」
「いや・・・」
「何か聴くならかけるが」
「・・・いや、いい」
勉強机の上に茶器を置くと、ヴァンツァーはシェラに椅子を勧めた。
確かにそこ以外には座るところもないので、シェラは言われるままに腰を下ろした。
「──砂時計。これ、紅茶か?」
目の前の茶器は透明なガラスポットで、中には細かな茶葉と金茶色の湯がたゆたっている。
注ぎ口のところに金属の網が張ってあり、そのまま注いでもカップの中に茶葉が入らない造りだ。
「お前、珈琲しか飲まないだろう?」
この世界に来てから何度かこの男が飲食するのを見たが、そのどの時もカップの中身は珈琲だったように記憶している。
それなのに、ティーポットの横には温められたカップがふたつ。
「もらいものだ」
「ふぅん・・・」
「何なら、茶葉と茶器を持っていけ」
「──は?」
「飲まないのに置いてあっても仕方ないからな」
「・・・もらいものなんだろう?」
贈ってくれた人に悪い、と非難の色を瞳に乗せるシェラ。
ベッドの端に腰掛けたヴァンツァーは、軽く肩をすくめた。
「あの女の考えることは、よく分からん」
「あの女・・・?」
「ジンジャー・ブレッド」
聞いて、菫色の瞳が真ん丸になる。
「お前・・・天下の大女優からもらったものを、私に寄越すな」
「いらんと言うのに押し付けてきたあの女にも非はある」
ひどい言い草だ。
この世の中には、彼女からもらえるならそれが路傍の小石や罵声であっても構わないという人間がいるというのに。
「・・・じゃあ、お前は珈琲飲めばいいんじゃないのか?」
「それは?」
「──え?」
「お前が手にしているものの中身だ」
「あ、あぁ・・・」
そうだった、とシェラは手にしたバスケットを机の上に置いた。
「・・・口に合うか、分からないが」
おずおずと蓋を開けると、中には切り口も美しいサンドイッチが敷き詰められていた。
立ち上がり、シェラの方へ歩み寄るヴァンツァー。
「随分自信なさ気だな」
からかうような口調に一瞬ムッとなったシェラだったが、軽く首を振った。
「私の作るものを美味しいと言ってくれる人はいる。料理の腕に自信もある」
だが、と困ったように眉を下げた。
「・・・お前の食事の好みを、私は知らない」
リィにだったら、何度も作った。
彼の食べる量も、味付けの好みも熟知している。
けれど、この男のそれはほとんど知らない。
「甘いものは、入ってないけど・・・」
シェラの視線の先で、砂時計が落ち切った。
長年の癖で手を伸ばそうとしたが、それよりも先に大きな手が視界の先に映った。
カップに注がれる明るい真紅の水色と、ふわりと立ち上る薔薇とミントのような力強くさわやかな香り。
「──ウバ?」
「あぁ、確かそう書いてあったな」
どうぞ、と差し出されたカップを手にし、シェラはまずその香りを楽しんだ。
さすが銀河に聞こえた大女優の選んだ品だ。
香りだけで、思わず笑みがこぼれてしまう。
「いただきます」
ひと口含み、鼻から抜ける香りとさっぱりとした苦味に、思わず「ふふふ」と微笑んだ。
「美味しい」
呟いてから、はっとする。
「悪い、今日はお礼に来たのに」
「構わん」
ヴァンツァーも白磁のカップを手にし、ひと口喉に流し込む。
「あぁ、悪くないな」
表情はあまり読み取れないが、頷いているところを見ると紅茶も彼の口に合ったのだろう。
「食べていいのか?」
「──え?」
「それだ」
視線の先には、シェラの作ってきたサンドイッチ。
「あ、も、もちろん!」
どうぞ、と差し出す。
まずヴァンツァーが手にしたのは、ハムサンドだった。
「いただきます」
「どうぞ」
このやり取りに、シェラはちいさく笑った。
まさか、ヴァンツァーの口から「いただきます」が出るとは思わなかったのだ。
そんなシェラの様子に気づいているのかいないのか、ヴァンツァーは四角く切られたハムサンドをひと口齧った。
「──クリームチーズ?」
「あぁ」
「この辛味はマスタードか?」
「からしと言うんだ。マスタードとは原料の品種が違う。マスタードに比べて少し刺激が強い辛味なんだが、食べると癖になる味で」
私はこれが好きなんだ、と言ってから、少し不安になった。
「・・・辛すぎるか?」
「いや、ちょうどいい」
「そうか」
ほっとしたシェラの前でひと切れ目を食べ終えると、ヴァンツァーは続けてバスケットの中身に手を伸ばした。
「これは・・・」
「玉子焼きだ」
「玉子焼き? サンドイッチにか?」
「あぁ。タマゴサンドと言うと刻んだゆで卵で作ることが多いんだが、厚焼き玉子で作るとまた美味しいんだ」
白いパンに、黄色い出汁巻玉子の層が美しく映える。
これは、マヨネーズとマスタードを合わせたものを、パンに塗ってある。
半分ほどを口に入れ、藍色の瞳が丸くなった。
「──ほぅ」
「悪くないだろう?」
「あぁ」
出汁と、わずかに砂糖が入っているのだろうが、嫌な甘さではない。
これも、すぐに口の中に消えた。
「それはカツサンドだ。厚めの肉だが、肉質がいいからやわらかいはずだ」
「ツナサンドは塩気が強めだが、玉ねぎのみじん切りと千切りきゅうりを合わせるとちょうどいいだろう?」
「それはBLTサンド。ちょっと食べづらいが、トーストしたパンとの相性抜群だ!」
「それはスモークサーモンのマリネ。水っぽくなるから、これもパンはトーストしてある」
「ローストビーフは、パンよりバゲットの方が合うんだ」
ひと通りバスケットの中のサンドイッチを食べ、紅茶を飲むと、ヴァンツァーはシェラを見遣った。
「お前は食べないのか?」
「──私?」
「結構な量がある。お前も食べればいい」
確かに、大の男が食べるとはいえ、持ってきた量は相当なものだ。
つい、リィに食べさせるときと同じように作ってしまって、シェラは苦笑した。
「・・・悪い。そんなに長居するつもりじゃなかったんだ。お前は忙しいだろうし、勉強しながらでも食べられるものを、と思ってサンドイッチにしたのに」
「構わん。課題はあらかた終わっている」
綺麗に片付いた机を見る限り、その言葉は嘘ではないのだろう。
だから、シェラは「じゃあ」と言ってタマゴサンドを手にした。
自分が作ったものだというのに、美味しくて笑みがこぼれる。
カップの中身を飲み干すと、おかわりが注がれた。
「ありがとう」
「あぁ」
幸せそうにパンを頬張っているシェラを見て、ヴァンツァーはほんの少し、本当に少しだけ、口許を綻ばせた。
そうして、その時間はバスケットとティーポットの中身がなくなるまで、続いたのだった。
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軽い飯テロ(コラ)子どもと食べ物書かせたら天下無双の久遠ねぇさんだぜぇ~♪